夕べは男五人で須磨の海岸に釣りをしに行きました。
まさに海の男たちです。
初心者が多かったのですが(僕も含めて)竿を組み立てるだけで四苦八苦していました。誤って針を指に刺してしまい、とてもいたい思いをしました。また、えさのゴカイを針に取り付ける作業はだいぶグロテスクで気持ち悪いものに思えました。そんなふうに思っている時点で自分が軟弱者だということがうかがい知れます。あのミミズのような体を触るだけでも覚悟が必要なのに引きちぎらないといけない訳ですから身の毛もよだちます。頭とシッポを持って爪を立て、グイと力を入れると虫のほうも筋肉を硬質化させて抵抗してくるわけです。「ちぎられてたまるか」という強い意志が指先の感触を通して伝わってくるわけです。このキーボードを叩く指に、今もその感触がありありと思い出されます。しかもそいつはこちらが躊躇して力を緩めたスキにその円形の口で指に噛み付いてくるしたたか者です。痛さよりもむしろ驚きから思わず地面に投げ捨ててしまいました。どうやらコイツを引きちぎるためには指先の力やテクニックよりもむしろ「生きたい」「殺されてたまるか」という意思を黙殺できるだけの精神力のほうが必要なようです。地面に落ちた虫は二倍ほどの長さに伸びて、逃げようとしています。つまんで拾い上げようとするとギュッと収縮しやがります。数分の奮闘の末、ついに指先がギロチンと化しました。「許せ」。指紋や爪の隙間に体液が染み込みます。そして冷徹な指先は釣り針で虫の頭を貫きました。そうやって僕は虫を殺しました。その時点ではまだもがいていますがこれから死んでいくわけです。魚を釣るためだけに殺したわけですが魚だって餌の虫を食おうとします。食うということは殺すということです。動物であっても植物であっても。これから釣ろうとしている魚も虫と同じように殺していくわけです。魚を釣るということはそういうやり取りなのです。そのやり取りを誰かがやってくれている代わりにお金を払ってスーパーで買うわけです。だからやっぱり食べ物を残すようなことをしてはいけないなと思いました。ゴカイをちぎるときに伝わってきた筋肉のこわばる感触、すなわち生きようという意思を剥奪して魚を食べようとしたわけです。そこには“責任”が生じて然るべきです。魚だろうが牛だろうがパンだろうが同じことです。その感触を忘れない限り僕は食べ物を残しません。


いや、魚は一匹も釣れなかったんですけどね。